bird and insect

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私の好きな写真家 最終回 杉本博司さん

Daisuke Abe

ということで、私の好きな写真家シリーズは今回で最後です。
短い間でしたが、ご愛読頂き、ありがとうございました。

最後の締めとなる今回は、、、

え?

まだ2回目だって?

といった声も聞こえてこないほど、あまり見られていないだろうなーと思い、
最終回とします。

(というか、これをシリーズ化して書いていくには、私には荷が重すぎました

ということで、最後は 杉本博司さんです。

杉本博司さんといえば、写真だけに留まらず、
建築設計、能の演出、多彩な表現で、私たちの目を奪ってきた現代美術家。
もはや、写真家ではない。

私が、杉本さんの作品を初めて見たのは、
東京都写真美術館が、リニューアルオープンされ、初の展示が行われた時だった。

当時好きだった女の子を誘い、ものスゴイ写真が見れるらしいと意気揚々と恵比寿に向かったのを覚えている。

最初に入ったのは、3階だっただろうか。
え? 写真じゃないじゃん。
謎のインスタレーションが私たちの目の前に現れた。

「今日 世界は死んだ もしかすると昨日だったかもしれない」

世界が滅びるであろう(滅びた)理由を綴った文字とインスタレーションが、延々と続く。

これは一体。

というか、全くの無知だった私は、これは杉本さんの作品ではないと思っていた。
都写美はいつも各階で展示が分かれているために、今回もそんな感じだろうと。
私の目は彼女ばかりを捉えており、全く思考停止していたのだ。

さておき、突然喋りだすオウムがいて驚いたり、セックスドールの為に世界が滅んだ理由に驚嘆したり、
とにかく、理解するのに必死だった。

別フロアにて、遂に写真作品と対面する頃には疲弊しきっていた。
仏の海 劇場 が展示されていたのだが、殆ど記憶にない。
ゴジラがどうのなど、それくらいだった。(劇場シリーズで、初代ゴジラを撮影していた説明だった)
今となっては、もっと事前に杉本博司さんのことを調べて、コンセプトや背景を知った上で行くべきだった。

余談だが、こういうことは、トーマスルフが、国立新美術館で個展を開いた時にもあった。
というか、私はトーマスルフを知らずに、なんと観に行かなかったのだ。終わっている。

本格的に杉本さんの作品にのめりこんだのは、そう2年前の5月のことだった。(多分)
展示に一緒に行った子に振られ、自分は写真に生きようと意気込んでいた時、
とにかく写真を撮っていた。
そんな時に、友人宅にて、DVD「はじまりの記憶」を目にする。

これは!

4人くらいの宅飲みの会だったのだが、そのDVDを再生したが最後
私は一言も喋らずに見入ってしまった。

こんな明確なコンセプトを以って、それを写真にしかできない方法で表現している。
頭も良い、作品もカッコ良い。
なんでもできる飛んでもおじさんではないかと、とにかく魅了されてしまった。

そこからは、DVDも購入し、作品集も購入し、
どんなコンセプトで作品をつくっているのか、 HPにもしっかりと目を通す。

https://www.sugimotohiroshi.com/

コンセプトは明確だ。

「ジオラマ」

写真を通すことで、虚像は実像たりうる。

 

「海景」

最古の人類も見たであろう、初めての記憶。

 

「建築」

 

設計者が最初に思い描いたその建築物のイメージ。

 

「劇場」

映画一本分の光の結晶で、時間というものを写し出している。

 

「ポートレート」

生と死の境界の曖昧さから、生の意味を問う。

一言でも説明可能なのだが、そこに肉付けされる様々なストーリーは、
どのようなバックグランドがあれば、表現できるのか、理解の範疇を超えている。

例えば、海景のHP上でのキャプションは以下の通りだ。

水と空気、このあまりにも当たり前のように在るために、ほとんど注意を引くことのない存在が、私達の存在を保証している。この世の始まりは「水と空気が与えられたとせよ」という神話から始まったのだ。生命現象は、水と空気、それに光も加わって発生した。どうしてそのようなことになったのか、については偶然という神が存在した、とでも言っておくしかない。太陽系の中で、水と空気が保たれている惑星があって、おまけに太陽から適度の距離にあって、たまたま温度が生命発生の条件に適していた。そんな惑星なら、この広い宇宙の中にもう一つぐらいあってもよさそうなものだが、見渡すかぎり、似たような惑星はひとつとして見つけることはできない。このありがたくて不思議な水と空気は、海となって私達の前にある。私は海を見る度に、先祖返りをするような心の安らぎを覚える。そして、私は海を見る旅に、出た。

杉本 博司HPより

この世の始まりは「水と空気が与えられたとせよ」という神話から始まったのだ。
杉本さんは時たま、「○○されたとせよ」と神の声を聞いている。

これは、別に本当に聞いているのではなく、やはり作り出しているストーリーであるらしい。
最初にイメージが頭の中に現れ、それを具現化しているとのこと。

「立てたコンセプトに沿って、理路整然とアートができていくわけなどないのです。直感とビジョンがまずは先に立つ。 〜中略〜言葉も利用価値の高い道具になっていく」と、語っている。(写真を読む夜 山内 宏泰 2018)

私はそれを読んで、少し安心した。
自分が写真を撮っていく過程と根本的には変わりはないのだ。

上述している 写真を読む夜 では、13人の写真家たちが、どういった思いで写真を撮っているのか など、それぞれの写真への向き合い方が
記されている。そこで発見したのは、根本的に考えていることはみんな同じであるということ。
佐内正史さんのような、なんでもない風景を撮るときの気持ち、奥山由之さんのような、感性でものを見ているような写真を撮るときの思い、
自分が感じているものと根っこの部分では同じだったのだ。

最近では、写真を撮る理由をとにかく探していた。
何か人と違うことがなければダメだと思っていた。
しかし、もしかしたらスタート地点は同じでも良いのかもしれない。そこにどんな特別なストーリーを付け加えていくのかが、
重要なことなのかもしれない。

その肉付けをできるようになる為に必要なのは知識。
圧倒的に知識が足りない。
そして撮ることだ。
イメージが湧いたら、それを次から次へと形にしていくこと。

今年はそんな1年にしたいな。

いや、しよう。

追記
このテンションであるならば、もしかしたら次回も書けるかもしれない。